銀賞 ぼくの海

帝塚山中学校 1年 葛川 壮之介

 ぼくは、この夏六年半ぶりにその海を訪れた。白波が立ち少し荒かったが、青空と白い灯台、そして海水浴をする家族連れ。それはぼくが幼い頃遊んでいた海と同じだった。ぼくはほっとした。
 東日本大震災が起こった年末、ぼくは福島県いわき市にある祖父母の家にいた。保育園児だったぼくには、テレビでくり返される津波の映像を観ても、まるで映画の一場面を見ているようで、実感がわかなかった。ただとても恐ろしいことが起こったということだけは感じていた。
 六才のぼくに祖母が「海を見に行こうか。」と言った。
 ぼくはいわき市に来ると毎年、夏は、薄磯海水浴場に出かけていた。寄せては返す波がおもしろくて、ぼくはずっと遊び続けていた。楽しかった夏の海。冬の海を見るのは初めてだった。
 祖母の車が海岸沿いの道に出たとき、ぼくは言葉を失った。あったはずの家はなく、ただ家の基礎部分だけが広がっていた。
 車から降りて、辺りを歩いてみた。祖母が「ここに階段の跡があるから、ここが玄関だったんだろうね。」と、土台だけになってしまった家の跡を指して言った。堤防のすぐ横に建てられている学校の校庭には、三階部分までがれきが積み上げられていた。海岸に降りると、浜辺には、くつや毛布、ぬいぐるみなどの生活用品が、あちらこちらに散乱していた。祖母からこの地で津波に流され、現在も行方不明の人もいると聞いた。ぼくは、ただただ恐くて仕方がなかった。一刻でも早くその場を離れたくて走って車にもどった。
 ぼくは、そのとき初めて、津波が人々の生活を全て奪ってしまったんだということに気付いた。いつも遊んでいたキラキラしたぼくの海は、そこにはもうなかった。ショックだった。その後薄磯海水浴場は閉ざされ、いわきへ来ても海へ行くことはなかった。
 震災から六年がたった去年、薄磯海水浴場が海開きをしたと聞いた。去年は来ることができなかったが、今年、再び訪れることができた。浜辺の風景は昔の夏のままだったが、大きく変わったことがある。それは、海岸線に造られた「防災緑地」である。人工的に造られた高台の斜面には、まだ三十センチメートルにも満たない松の苗木が無数に植林されていた。高台の上に上ると遊歩道が、整備され、海を一望することができる。気持ちの良い海風をうけながら遊歩道を歩いていると、「津波避難経路」の矢印が書かれたプレートと、「海抜十メートル」を表す標識が立てられていた。
 「防災緑地」は三つの機能をもっている。一つ目は、津波の被害を防ぐ防災機能である。二つ目は、地域振興機能である。レクリエーションや自然とのふれあいの場になることを指している。三つ目は地震や津波で失われた景観や環境の再生である。
 ぼくは「防災緑地」が津波の到着を遅らせるだけでなく地域の交流の場としての役割も果たすことを知り、人々の復興に対する強い思いを感じた。
 今はまだ小さな松の苗木だが、十年、百年後に立派な松林がこの町を見守っていることだろう。そして数千年に一度の大津波が来たとしても、今回の「防災緑地」が役に立ち、先人の努力が感謝される日が来ると思う。
 この美しいぼくの海がいつまでも続きますように・・・。

 

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2018年12月01日