佳作 日本の水産業を通して感じたこと

帝塚山中学校 1年 辰巳 慶一

 ぼくは、奈良生まれの奈良育ち、四方を山に囲まれた奈良盆地の真ん中で暮らしているぼくにとって海は憧れです。一方、四方を海で囲まれた我が国は、日本だけが水産物を漁獲し、海底資源を採取する権利を持つ排他的経済水域の面積は、四百四十七万平方キロメートル、世界第六位の広さがあり、日本の陸地面積の十二倍以上の広さです。
 そこで、ぼくは水産業に着目しました。一万年以上昔の縄文時代の遺跡から、魚や貝の食べかすが貝塚から見つかっていて、既に人々が魚や貝類を食べていたことがわかっています。時代が進むと、海で泳ぐ魚をもりで刺してつかまえたり、いかだ舟で海へ出て釣り針やもり、仕かけ網、かご網などを使い、サケ、カツオ、マグロなどを漁獲したりして、毎日の食料にしていました。色々な魚の干物も作られ、保存するようにもなりました。時代が進むにつれて、人々の食べ物の種類と量が増えてきます。人々はいろいろな場所に集まって村ができ、多くの食べ物が必要になると、魚を採って売る仕事が発達してきました。鎌倉時代になると、多くの魚を採るために人々が集まり、漁村ができました。魚を干したり、塩漬けにしたりして加工、保存されるようになり、遠く離れた村へ売られるようになります。こうして、海の幸を食料として供給する水産業が生まれました。江戸時代になると、さらに沢山の魚を採る為に、遠くの海へ出かける漁船が造られ、岸から離れた沖合漁業が開始されるようになりました。明治時代には、加工食品の技術が進み、日本で初めての缶詰が明治四年(一八七一年)に作られるなど高度な加工食品が作られるようになりました。また、みそや酢、しょう油などの調味料もでき、それらを使用した加工食品が作られるようになり、現在の水産加工の基礎になっています。
 日本の近海は、水産資源が豊富で、暖かい日本海流(黒潮)と冷たい千島海流(親潮)がぶつかっている世界三大漁場にあたる三陸海岸の沖合の東部太平洋漁場や、日本海側では、暖かい対馬海流と冷たいリマン海流がぶつかっている山陰海岸の沖合の日本海漁場の二つの潮目があり、良い漁場となっています。魚介類は、昔から人々の生活にとって貴重な資源であり、明治時代以降には、日本の漁場は、沿岸漁業から沖合漁業、さらに外国の海に出漁する遠洋漁業に進出しています。漁業では、各国が二百海里(約三百七十キロメートル)の排他的経済水域を設定するようになりました。各国は、この水域での魚介類を採る権利を持ちますが、同時に資源の保護や水域内の環境を維持する義務も負うことになっています。このように、食料資源としての魚介類が住める環境づくりが求められているといえます。日本の伝統的な漁法である「かつお一本釣り漁業」が平成二十三年(二千十年)にマリン・エコラベルの認証を受けました。この認証は、水産資源を持続的に利用することができ、海洋生態系に与える影響が小さい、優れた漁法であることが認められたということです。そのマリン・エコラベル・ジャパンは、資源管理を行っている漁業者の支援と、消費者をはじめとする関係者の水産資源の持続的利用や、海洋生態系保全活動への積極的参加を促進することを目的として作られました。これまでは、豊かな漁業資源に恵まれていた日本ですが、マイワシのように急激に漁獲高が減少した魚類もあります。これは、干潟や藻場の変化によって魚が産卵する場や、育つ場所が減少したことと、海洋の環境が変化したことに加えて、一部の魚では、産まれて育つ魚の量をこえた漁獲をしたことにも原因があるといわれています。日本では、法律によって漁船の数や大きさなどの制限があります。特にマアジ、マサバ、ゴマサバ、マイワシ、サンマ、スケトウダラ、ズワイガニ、スルメイカの八種については、漁獲可能量が決まっていて、管理が行われています。昔から、海の魚は豊かな森のある場所に集まってくることが、漁民の間では知られていたそうです。魚介類の生育と森の関係は、まだ完全にはわかっていませんが、森によって土砂の流出や川の汚染が防げることにより、海洋に森の養分が流れることでも魚を育てるのではないかと考えられています。森と魚は、無関係に思えますが、実は互いに支え合っているのだと思います。
 ぼく達の食卓に並ぶ魚介類をはじめとする自然の恵みが、日本の豊かな食文化を発達させたのだと思います。ぼく達は、海から大きな恩恵を受けています。しかし、自然災害によって恐怖にさらされることもあります。海に感謝し、その資源を大切に守っていくことが、次世代を担うぼく達に課せられた使命なのだと痛感しました。

 

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2018年12月01日